生き物は皆、死んでいくということ(2016年初に思う)
ついこの間、2015年12月28日。昨年亡くなった祖父が飼っていた犬が死んだ。齢、14歳と半年。
祖父が亡くなってからは、静岡の実家で父母と共に暮らしていた。1ヶ月ほど前から心臓の発作が起きていたらしく、僕が実家に帰省するまで間に合わなかった。
生き物は全て、いつかは死んでいく。生きている限り、死は不可避だ。そんなことはわかっている。
突然の事故でもない。小型犬で14歳まで生きたのだから、寿命と言ってもいいかもしれない。それなのに、たまらなく悲しい。もうこの世界にいないということが。楽しかった思い出が溢れてきて止まらない。僕はもう父母と暮らしていないから、祖父が亡くなった後、父母がどのように祖父の飼っていた犬と暮らしてきたのかはわからない。彼らにとっての悲しみは僕の悲しみの比ではないだろう。でも、僕自身、実家に住んでいた頃から祖父の犬とは何度も会っているし、実家の犬が亡くなってからは、帰省する際に祖父が連れてくる犬の頭を撫でるのが楽しみだった。
でも、もう、いない。
父母が気を利かせてくれて、火葬するのを僕が帰省する翌日にしてくれた。12月31日。
12月30日に実家に帰ると、畳の部屋に祖父の犬が寝ていた。目は薄っすらと開いていたが、とても安らかで、まだ生きていて眠っているだけのようだった。僕は、犬の頭を撫でた。少しざらついた毛の先に固い頭の骨の感触がした。なんとも言葉にならなかった。
自分が生きれば生きるほど、他者の死に目に立ち会う機会が増える。
「生き物は皆、死んでいくのだから、それを悲しんでいてはダメだ。きっとこの世ではない何処かで楽しくやっているだろう」と、そう思いたい。
でも、そんなのは無理だ。その生き物との思い出があればあるほど、悲しみは止めどもなく溢れて尽きることがない。時が経てば多少は薄れるけれども、きっとこれからも僕の中で親しかった者との別れは残り続ける。
このブログを始めて1年と少し。その間に祖父の死、父のガン、など死と向き合うことが多かった。死を意識することは怖い。僕はまだやりたいことのすべてを途中で投げ出している状態だからだ。
2016年が始まった。僕は怠け癖が強いから、本当に自分がやらなくてはいけないことを放っておいてしまう。けれど、それでは駄目だ。このままでは駄目なのだ。
20代の頃、僕はとても焦っていた。なりたい自分になれずに苦しかった。でも30歳を超えた時、理由はよくわからないがそういう一切合財がどうでも良くなった。小説を書くのも絵を描くのもしなくなった。
でも、その先に今の自分がいて、今この瞬間、僕は多少の後悔を抱えている。日々を生きていくためには仕事や家事をしなくてはいけないし、その他の小さなことも消化していかなくてはいけない。ただ、それだけをこなす日々に慣れてしまった先に、しあわせはない。この「しあわせ」は他の誰かが考える「しあわせ」ではない。あくまで自分の考える「しあわせ」である。だからこそ、自分自身が自分を大切に、毎日を誠実に生きていかなくてはいけない。
2016年。僕は「しあわせ」を求めて生きる。
最後に。死後の世界なんてあるわけないとは思いながらも、心の隅で、祖父の飼っていた犬と祖父が今は対面してこの世ではないどこかで幸せに暮らしていることを想像している。