元はただの石ころ

「確かなのは過去でも未来でもなく今」とわかっているけれど、そう簡単に割り切れない奴の日常

静けさを求めている

どこにいても、静かではない。

例えば、今このブログを更新しているカフェは、神保町にあるチェーンのカフェである。先日、土曜の夜に同じくらいの時間帯に来たのだが、客は自分の他に2組しかおらず、随分と静かだった。けれど、今日は平日、かつ明日は祝日でその次は土日の三連休。店内には酔っ払っているのか、やけにテンションが高い中年男性二人組。その奥の四人がけテーブルにはこれまた中年の男女四人組がどうでもいい内容を延々と喋り続けている。その渦中にいる者にとっては、楽しくても、それを端から見ると、やけに滑稽であったりするということの典型ではないのか。

 

僕は何をしにこのカフェに来たのか。それは小説を書くためだ。けれども、今日は仕事が忙しかったから、なんだか良いアイディアも思い浮かばず、筆は遅々として進まない。となると、周囲の人間観察となる。こういったチェーンのカフェでは、いろいろな人がいろいろな会話をする。それを聞く。盗み聞くというよりも、聞こえてくるのだ。

 

小説を書くにあたり、過去に書いた小説を読み返した。小説以外の日記にもなりきれていない残骸も読み返してみた。そしてわかったのは、僕は来年33歳になるというのに、未だに、10代後半のような思考回路をしているということだ。これは決して自画自賛しているのではなく、その逆である。

10代後半の思考回路とは僕の場合は、容姿に関することですぐに落ち込む、マイナス思考に陥るということだ。もう32歳なのだから、確実に老化は始まっているのだし、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。けれども、同年代と比較して、明らかに容姿が老けているなぁと思うのである。これはもう20代前半の頃から30代に見られていた自分としては、仕方ないと思うのだけれども、いつまでも若い見た目でいたいのだ。

いや、そこまで贅沢は望まない。せめて年相応の見た目になりたいものだ。でも、見た目というのは、他者を通した視点である。僕はこういった視点を10代の頃から気にしないようにしながら生きてきた。そう、生きるためには他者の視点を気にしてはいけなかった。というわけで、見た目が酷い→落ち込む→でも人は見た目だけじゃないと思い直す→それに他人の評価なんて人それぞれだ→気にしないことにしよう→(始まりに戻る)、という哀しき無限ループだ。本当、世の中は不公平だ。

 

そんなこんなで僕は今も生きている。願わくば、もっと人が少ないところに行きたい。20代の頃はほとんど考えなかったけれども、最近は自然豊かな場所で静かに暮らしたいという思いが強い。けれども、それをするためにはまだまだ稼がなくてはいけない。生きるとは大変なことだ。

老いも病も受け入れよう

老いも病も受け入れよう