元はただの石ころ

「確かなのは過去でも未来でもなく今」とわかっているけれど、そう簡単に割り切れない奴の日常

石田徹也という画家について僕が思うこと

 

 

石田徹也全作品集

石田徹也全作品集

 

 

幼い頃、画家になりたかった。

小学生の頃、絵を描くのが好きだった。けれども、たいしてうまくなかった。クラス内での展覧会。僕は、いつも銀賞だった。金賞は、クラスで一番絵がうまいあの子が取る。僕はいつも二番だった。だから、だめだと思った。絵は好きだったから、中学に入っても選択科目は美術を取ったけれど、その後、美大に行くことも、絵を描き続けることもしなかった。

 

石田徹也という画家の存在を知ったのは、たしか、2007年頃?に放映されたNHKの日曜美術館だったかと思う。彼の絵にたびたび登場する、若い男の姿が頭に焼き付いて離れなかった。当時、僕は大学生で、実家のある静岡に住んでいた。石田は、静岡の画家であり、その当時、タイミングよく石田徹也展が静岡市内で開かれると知って、それを見に行った。

想像していたよりも、彼の絵は一つ一つが大きかった。驚くほど細密でリアルで、けれども人物は若干のデフォルメをされて描かれていた。ほとんどの彼の絵に登場する若い短髪の男。この男の表情は、基本的に無表情なのだが、どこか不安げで、寂しげだ。じっと見ていたら、なんだかこの男の心の叫びみたいなものが聞こえてくるような気がした。それは決して激しくはなく、むしろつぶやくように微かなものだろうと思えた。真面目で実直な感じが顔からにじみ出ていたから、そう思ったのかもしれない。

 

学校の校舎が胴体になっていて、壁から頭と手が突き出ている絵があった。シュールではあるけれど、その絵を見てくすりとも笑えないのは、やはり、男の顔が、真顔であり、リアルを伴っているからだろう。

 

展示されていたすべての作品を見終えた時、なんとも言えない気分になった。

この気持ちを言葉で表現するのは難しい。決して爽やかな気分ではなかった。かと言って絶望した気分になったわけでもない。強いて言うなら、真っ暗闇の中に唯一ぼんやりと光る電球を見てほっと安心するかのような気持ち、というところだろうか。

 

世の中には色々な人がいて、自分に合う人、合わない人がいる。石田徹也の描いていたものだけで石田徹也本人を判断するのはあまりにも性急かもしれないけれど、もし彼が生きていて、どこかで出会っていたなら、僕たちは友達になれたのではないか。それくらいに、彼の描く絵は僕の心の奥深くと共鳴し、深く刻まれて、それから今日の今まで僕に強烈な印象を残している。

 

彼の絵に登場する若い男が、とても他人には思えない。自分のことを描かれているかのようにも感じる。だから、彼の画集が発売された時、散々に迷って結局購入しなかった。

彼の絵を見ていると、僕にとって同じような人がいるという安心感をもたらすとともに、そこに安寧していては、僕はなにもできなくなるかもしれないという恐怖を感じた。1日中何もせずにどこにも行かずにただベッドの上に寝転がって、壁や天井を眺め、疲れたら目を瞑り、いつの間にかまどろみ、眠り、目覚める。そんなことを繰り返して、日々は過ぎていき、やがて死んでいく。そんな怠惰の極みのあたたかなぬるま湯の中にどこまでも潜り込んでいってしまいそうな気がした。困ったことにそれは、自分にとって魅力的にも思えた。だから、あえて一定の距離をとってきた。けれど、時々、彼の絵が無性に見たくなる。

先日もそんな気持ちになり、彼の絵が載っているWebサイトを巡った。

 

僕にとって石田徹也の絵は、自分がこの世界に生きることを肯定してくれる。

こんなやつでも、生きていてもいいんだと思わせてくれる。彼の絵を見て、きっと、同じように感じる人もいると思う。それは決して多くはないと思うけれど、僕はそんな人たちに、彼の存在と絵を紹介したくてこの記事を描いた。

 

生きることが辛い時、彼の絵は、そっと静かに寄り添ってくれる。彼の絵の中の男が、大丈夫、俺も同じなんだ、そう言ってくれている気がする。

 

 

石田徹也遺作集

石田徹也遺作集

 

 

 

石田徹也ノート

石田徹也ノート

 

 

 下記の雑誌でも、石田徹也の特集を読むことができます。

美術の窓 2008年 11月号 [雑誌]

美術の窓 2008年 11月号 [雑誌]