元はただの石ころ

「確かなのは過去でも未来でもなく今」とわかっているけれど、そう簡単に割り切れない奴の日常

散らかった思考をそのままに書いてみる(フィクションかもしれない)

きっと無駄なものはたくさんある。

 

この世界は飽和状態で、あれもこれも欲しいと目移りして、本当に欲しいものが何だったのか、思い出せない。毎日、小さな出来事に一喜一憂しているうちに、何のために僕は会社へ行っているのだろうと思うようになる。それは一度思ったら、雪だるまのように膨らんでいき、どこまでも大きくなり、やがて、自分自身の心の核というべきものまで、潰してしまう。


嗚呼、こんなはずじゃなかった、と思うことばかり多過ぎて、道行く人たち皆が、何やら楽しそうで、それに比べて僕は何を今日一日で得て失っただろうか、と疑問をすり替えて自問自答してみる。けれど、そんなことはもちろんわかりもしないので、特に何も考えずにコンビニの弁当を買って帰り、面白くもないバラエティに、少しだけ笑って、少しだけ溜め息をつく。はぁ。この息が今日のすべての憂鬱を消し去ってしまえば良いのに、と思い、そんなことはありえない、と突っ込みながら、シャワーを浴びる。そういえば、もうシャンプーが無くなりかけていると気づき、ふと、これまで何回こうやってシャンプーを詰め替えてきたのだろう、と思う。そして、これから何回シャンプーを詰め替えたり、髪を洗ったりしなくてはいけないのだろう、と思う。そしたら、寝るのはあと何回で、実家にはあと何回帰るだろう、と思いは拡大し、これはそろそろ収拾がつかなくなってきたなと、思い、ようやく何も考えないように努め始める。

 

ふう。ベッドに入り、目をつぶる。明日会社に行けば土曜日。休みだ。でも、僕には何も予定がない。何をするでもなく、ただ何もせずに、陽が昇るのを見て、空の色が変わるのを見て、雲が流れるのを見るだろう。そこに、何の感動も共有もなく、ただひとり静かに過ぎていく時を思うだろう。何の生産性もなく、人からしたら酷く怠惰な生活にしか見えないと思うけれど、そうすることで僕はやっとこの世界で生きるための術を手に入れることができるように思う。

 

何かをするように絶えず人は言う。何もしないという選択肢が最初から存在しないかのように、何もしていない人は何も価値が無いとでも言うかのように。そんな傲慢な考え方に、誰もが犯されているのだとしたら、ずいぶんと寂しい世の中になったものだ。

 

それでも、僕は、生きていくのだ。

 

何もしないという選択肢があるのだから。選択しないという選択肢が残されているのだから。その事実に、少なくとも気づいてはいるのだから。それは多分、希望と同義だと思う。

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

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