元はただの石ころ

「確かなのは過去でも未来でもなく今」とわかっているけれど、そう簡単に割り切れない奴の日常

【読書感想文】『小説 天気の子』(新海誠)

2019年7月19日公開の映画「天気の子」の小説版を読んだ。

以下に感想を書いていく。目次を立てているが、特に順番に法則性はない。思いつくままに書いている。なお、ネタバレしているため、読了または映画を観てから読んでほしい。

※現時点でまだ映画は観ていないため、純粋に小説のみの感想である。

自分の考えで生きていく

自分の考えで生きていく。それが正しいか正しくないかは、自分で決める。世間がどうかじゃない。他人がどうかじゃない。自分なんだ。自分で決めるんだ。ということがこの小説では描かれていた。
日本という国で生きていると、同質性が高いとよく感じる。出る杭は打たれる。皆と同じで安心する。それが良くも悪くも日本社会には染みついている。私事だが大学生の時に1年間ニュージーランドへ留学した。それ以降も毎年海外に行っている自分からすると、海外(特に欧米)では日本で感じる息苦しさがない。個人主義が浸透しているため、「人(考え方)は違っていて当然でしょ」という考え方が徹底されている。そこには「みんながどう思うかではなく、自分がどう思うか」を大切にすることを当然とする社会がある。

同質性が全て悪いわけではない。けれど、それが行き過ぎてしまうと、監視社会のようになる。日本は今、テレビ、SNS等のメディアや声が大きい人、容姿が整っている人、社交的な人、そんな人たちばかりが優先される社会になっていないか。「周りを気にするな。自分を、自分の考えを大切に生きろ」、ということが一つのポイントになっているような気が僕はした。

 

みんなの為なら1人が犠牲になっても良い

「みんなの為なら1人が犠牲になっても良い」という考え方がある。この小説ではそれを否定する。たった1人を助けるために世界を変えてしまう。そこに善悪はあるか。良いか悪いか。そう単純ではない。自分にとっての善が他者にとっての悪となることは本当によくある。善悪では測れない。それはきっと誰にも決められないこと。ここでも「自分がどう考えるか」が最終的には重要なのだ。

 

生きていくということは選択の繰り返し

生きていると、時に間違った選択をしてしまうこともあるだろう。それでも私たちは生きていかなければならない。大切な人がいなくなったって、生きていかなくてはいけない。雨が降り続けたって、晴れが続いたって、生きることが嫌になったって、孤独に苛まれたって、誰も助けてくれないと思ったって、どんな時だって生きていかなくてはいけない。

亡くなった人や生きているけれども会えない人たちはこの世界にたくさんいて、ある時たった1度だけすれ違ったそんなような人だってこの世の中にはたくさんいて、そういう人たち一人ひとりに向き合っていたら、もうどうして良いのかわからなくなってしまう。どうしてこんなにも生きづらいのか。どうしてこんなにも悲しく辛いのか。そんなことばかり考えていた時があった(今日で35歳になるというのに今もある)。この狭苦しい部屋から出ることさえも億劫であるばかりか、布団から出ることさえもできなくて、ただ天井のシミを見つめるだけの日々が続いた日もあった。そんな僕の人生にもささやかだけれど素敵な出会いがあった。そして悲しい別れがあった。そういうことを繰り返して人は自分の一生を生きていく。選択を繰り返して生きていく。

選択(判断や考え方)は、本当の意味でその人にしか正解がわからない(本当は正解さえ無いのだろうきっと)。でも人は様々な結果に対して評価したがる生き物だ。安易に良いとか悪いとか簡単に評価してしまう私たちの愚かさと、それに振り回されない自分の中での考え(勇気と言い換えても良い)を持とうということを著者は言いたかったのではないだろうか。

 

ストーリー展開の現実性よりも大切なこと

新海監督の良さとして背景美術の綺麗さ、リアルさが挙げられると思う。ただこれは物語である。現実からすればこんなストーリー展開はありえないからダメだ、と評価してしまう人が一定程度出てきそうだが、そうだとしたらそれはあまりにも残念だ。なぜならそれはこの物語の本質とかけ離れた評価だから。ただ物語を楽しんでほしい、というのが新海誠監督の願いだろう。

どこにでもいるような普通の少年が少女と出会って変わっていく。少女はたまたま天気を操る能力がある。でも本当はそんな能力など無くたって良い。これは、少年と少女の純粋過ぎる程に素敵なラブストーリーなのだから。

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)